開志専門職大学
込山さんの手がけられているお仕事について教えてください。
込山洋一
アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルスを中心に 、西海岸とハワイの4つの地域(本社と支局)で、日本語の情報誌「ライトハウス」(フリーペーパー)を発行しています。2019年1月で創刊から30年になります。
込山洋一
日本人にとって、言葉も文化も習慣も異なるアメリカ生活は、知らないことや勝手がちがうことばかりです。
込山洋一
私たちライトハウスは情報を通して、アメリカに暮らす日本人のみなさんが、生活になじんだり、楽しんだり、
込山洋一
また生活や仕事の中で発生する問題を解決するためのお手伝いをしています。みんなに喜んでもらったり、感謝してもらえる、とてもやりがいのある仕事です。
込山洋一
もうひとつの教育事業では、アメリカの高校生に日本の大学を紹介するためのイベントや、高校訪問など様々なPR活動をしています。
込山洋一
要は日本の大学をアメリカに紹介する仕事です。また日本の学生を海外に連れて行って様々な体験をしてもらう教育研修事業にも力を入れています。
開志専門職大学
教育事業を始めた動機とは?
込山洋一
私が会社を始めたのは23歳の時です。会社に勤めたこともないから、経営も営業も経理も、会社をやっていくために必要なことを何も知りませんでした。
込山洋一
それでも毎日一生懸命に走り回っていたら、その頃に出会った大人たちが、何も知らない私にたくさんのことを教えてくれました。
込山洋一
励ましてくれたり、時には厳しく叱られることもありました。もちろん呆れて離れていく人もいましたが、若者のためにこんなに真剣に応援してくれる大人が大勢いることに驚き、感動しました。
込山洋一
同時に、取材や営業をしているうちに、アメリカという異国の地には想像を超える 規模で、日本人や日本企業が活躍していることを知りました。
込山洋一
日本の景気が良くないと言われる今もそれは変わりません。そういう世界で活躍する日本人や日本企業の存在を若い方たちに知ってほしい、
込山洋一
私が育ててもらったように、若い方たちに海外で活躍する日本人や日本企業とふれさせたい、そんな思いからこの事業をスタートしました。
開志専門職大学
人々の転機に関わるかもしれない、やりがいのあるお仕事ですね。
開志専門職大学
事業を30年続けることは大変なご苦労だったのでは?
込山洋一
会社が始まって以来、知らないことだらけだけど無我夢中で走り続けました。
込山洋一
自分たちで作った商品を自分たちで工夫して売る喜び、売上が伸びる楽しさを知りました。それは今も変わらない。
込山洋一
ただ近年は頑張るのは当たり前。しっかり考え抜いて経営をしないと成長を続けることは簡単ではありません。
込山洋一
もともとロサンゼルスには日本語メディア(雑誌、新聞、テレビ、ラジオなど)が26社ありましたが、今はもう4、5社しか残っていません。
込山洋一
90年代から2000年代の初めにかけては毎月のように新しい(日本語)メディアが出てきては消えて行きました。廃刊(発行を止めること)したメディアは100社くらいあります。
込山洋一
どこかで買ってきたような記事はインターネットでいくらでも見ることができます。
込山洋一
読者が必要(助かる、楽しい、勇気づけられる)とする情報は何なのか、自分たちで企画して、取材して、誌面にしてきたから、私たちライトハウスは生き残り、成長できていると思います。
込山洋一
ただ世の中(読者)が必要とするものは変わります。それに合わせて私たちも変化し続けなくてはならない。
開志専門職大学
時代は移り変わっている、ということですね。
込山洋一
例えば、自動車メーカーも携帯電話のメーカーも食品メーカーも、同じ商品(サービス)や値段のままだと、消費者は離れていきます。
込山洋一
消費者が求めるものは常に変わるし、新しい技術やアイデアは世界中で生まれ続けます。変化なしでは生き残ることはできない。
込山洋一
だから、自分たちの五感をフルに働かせて世の中がどこに向かっているのか、私たちは常に勉強しないといけません。
込山洋一
これからはAI(人工知能)やロボットや他の国の労働力に仕事を持って行かれる可能性があれば、その逆に私たちが新しい価値や商品(サービス)を生み出すこともできます。
込山洋一
実は世の中はチャンスに満ちていると言えます。
開志専門職大学
ますます、頭を使って生きなくてはならない時代なのですね。
開志専門職大学
さて、込山さんがもともとアメリカにいらっしゃったのはどのような経緯で?
込山洋一
僕は船の学校で学んでいたのですが、卒業の前に 一年間の航海実習がありました。
込山洋一
それでハワイとロングビーチに来まして、アメリカのピザはでかくておいしいし(笑)、ソフトボールを一緒にした地元のアメリカ人は皆明るく雰囲気はいいし、青空は果てしなく青い。
込山洋一
自由に何だってできるんじゃないか。そんな強烈な印象が残ったのです。
込山洋一
一方で航海実習中も東京や大阪に寄港すると、同級生たちは日本郵船や商船三井をはじめとする海運会社を訪ねて就職活動をしていました。
込山洋一
でもみんなと同じように組織に入って、船乗りとして一生を過ごすイメージがもてませんでした。先生や親戚が就職先の面倒をみようとしてくれるのもありがたかったけど、気持ちが重かった。
込山洋一
そんな時にアメリカで知り合った人から「レストランを開けるから手伝って欲しい」という連絡をいただき、これは渡りに船と、卒業式を待って飛行機でロサンゼルスに飛びました。1986年の10月3日でした。
開志専門職大学
まずはレストランで働いたんですね?
込山洋一
実は働き始めて間もなく、次々に料理人が辞めていって(笑)、 4カ月目で僕がチーフになってしまいました。
込山洋一
さらにオーナーとマネージャーがケンカをして、そのマネージャーから「この店を出て一緒に店をやろう」と誘われました。でも、それを機会に僕もレストランは辞めて、新たに塾を開くことにしました。
開志専門職大学
学習塾ですか?
込山洋一
そうです。開高塾という名前で、日本人の駐在員の子どもを相手に、日本の高校受験や中学受験の指導をしました。
込山洋一
日本食スーパーにチラシを貼って生徒を集め、さらに口コミでどんどん生徒が増えました。手応えが結構良くて、「ちょっと高いけど成績が上がる」という評判だったんですよ(笑)。
込山洋一
半年ほどで生徒も100人近くなり、人を何人か雇い、生活するには十分なお金も稼げるようになりました。
開志専門職大学
でも、満足はしなかった?
込山洋一
もともと、書くことや作ることが大好きだったんです。自分で絵を描いたり文章書いたり。それで日本語の情報誌を作ろうと思い立ちました。
込山洋一
そうしたらいろいろな人に会えるし、そこから次の展開を考えたらいいと。渡米から2年あまり、塾の権利は人に売って、情報誌を創刊しました。今のライトハウスです。
込山洋一
朝と昼は営業と取材活動、夕方からは家庭教師、帰宅してから朝までは、仮眠をしながら記事を書いたり広告をデザインしました。友だちや奥さんがよく手伝ってくれて、毎日とにかく夢中で楽しかったのを覚えています。
開志専門職大学
さて、英語の方はいかがでしたか?最初からある程度話せたのですか?
込山洋一
道を聞くのがやっという感じです。でも、広告営業を始めたら、やはりアポイントを取るためにちょっとは英語が必要になってきます。
込山洋一
でも、 学校に行く時間は全然作れません。使いながら覚えるしかない。いや、使わないと仕事にならない。
込山洋一
創刊2年目から弟が日本から来て営業を手伝ってくれるようになると、会社の売り上げはどんどん伸びました。しかし英語は下手くそのまま。
込山洋一
さすがにまずいと思うようになり、アメリカ人の先生に毎朝早朝に会社に来てもらって、3年間くらいみっちり英語のプライベートレッスンを受けました。
開志専門職大学
そうですか。それだけ経営でお忙しかったのだと思います。走り続けてきた30年を振り返って、改めて「アメリカの素晴らしさ」とは何だと思いますか?
込山洋一
アメリカには「若いくせに」とか「いい歳をして」という言葉がありません。若くても何だってチャレンジできるし結果を出せば尊敬もされる。
込山洋一
70歳になっても80歳になっても勉強する人はするし、働いている人も多い。80歳を過ぎて会社や新しいことを始めるのも珍しくありません。
込山洋一
チャレンジするタイミングは、人が決めることではなく、自分で決めることです。人に迷惑をかけなければ何をやたっていい。
開志専門職大学
そうなんですね。年功序列を意識する日本の社会とは違うということでしょうか。
込山洋一
人の目を意識しなくてもいい点もアメリカのいいところです。例えば日本だと、高級車やスポーツカーに乗っていると「調子に乗ってる」とか「生意気だ」という人もいます。
込山洋一
アメリカだとむしろ「(それが買えるということは)仕事がうまくいっている」と安心してくれるでしょう。
込山洋一
そもそも、上とか下とか細かいことにこだわることが少ないです。また良くも悪くもあまり人に干渉しない傾向があります。
開志専門職大学
「いい車に乗って」という、ある意味、嫉妬のようなカルチャーが日本にはまだあるのかもしれないですね。アメリカだと素直に「いい車だね」と言ってもらえそうですが(笑)。
開志専門職大学
では逆に日本人の良さや強みは何だと思いますか?
込山洋一
多くの人が真面目で誠実だということです。きちんとしているし、嘘をつかない。それはよく感じます。
込山洋一
それから、自分の会社に何か問題やミスが起きると、本人のせいでなくても、自分のことのように私たち(日本人)は謝ります。アメリカだと「私の問題じゃない」でおしまいになることが多いです。
込山洋一
でも、これはアメリカ人だからどうだっていうことではなくて、世界中から人が集まっているアメリカという国は、あまりにも多様な背景を持つ人々から成り立っているからではないかと思います。
込山洋一
さらに、日本人はある程度やっても「これでよし」と妥協せずに、とことん追求しようとする傾向があります。それも日本(人)の強みです。
込山洋一
アメリカ、アジア、ヨーロッパ、世界中で日本人や日本を尊敬してくれている人はけっこう多いのです。
開志専門職大学
話を変えます。どちらのご出身でどんな子ども時代を過ごしましたか?
込山洋一
香川県の高松の出身です。子どもの頃から人にあれこれ言うのも、また言われるのも嫌いで、大人に対して反発心がありました。
込山洋一
だから少年野球など大人が指導するチームには所属せずに、子どもだけで野球リーグを作ったり、隣の県までママチャリで自由気ままに行ったり。
込山洋一
指示されるのではなく、自分で考えて自分で行動することが好きでした。それは今も変わりません。
開志専門職大学
その頃の将来の夢は何でしたか?
込山洋一
社長と先生です。経営者か、学校の先生という、異なる二つの職業に憧れていました。
込山洋一
先生に関しては、子どもが成長する様子をそばで見ていられることに魅力を感じていました。
開志専門職大学
それでも、船の学校(商船高専)に進まれたのはどうしてですか?
込山洋一
たまたま親父が船乗りだったこと、当時ゴタゴタしていた家から(寮生活になり)出られること、実習で海外に行けること、それらを含めて何かが変えられそうで『脱出だ!』と受験しました。
込山洋一
先生にはならなかったけど、 若いみなさんの成長を助けることを仕事にできて、素晴らしい仲間たちが働いてくれる会社を経営できて、子どもの頃にやりたかったことをそのまま仕事にできて幸せです。
開志専門職大学
込山さんから、これから大学生になる高校生に「4年間でこれを経験してほしい」というアドバイスをお願いします。
込山洋一
人生や職業の選択肢を増やしてほしい、そしてその中から「これをやる」と決めたらとことん頑張ってほしいと思います。
込山洋一
机の上で考えても限界がある。実際に動いてしまえば、人とのつながりだったり、知識だったりが得られます。それに何かを足すことで、さらに大きな可能性が広がります。
込山洋一
あれはダメだ、これはダメだと行動を起こさないで評論家のようにコメントだけ言っているようではダメです。それだけで、お金も人脈も得られるはずがありません。
込山洋一
すべては行動してこそ、なのです。ただしそれは勉強しないでいいという意味ではない。しっかりと勉強をしてこそ、行動が生きるのです。
開志専門職大学
「選択肢を増やす」について説明していただけますか?
込山洋一
たとえば、自分の就職先を選ぶときもテレビのコマーシャルで見られるような企業だけを対象にするのではなく、いろんな角度から研究してほしいということです。
込山洋一
自分の限られた知識の中では限界があります。
開志専門職大学
だからこそ、動いて、それでいろんな人に会って、自分自身の経験を積むことが重要だということですね。
開志専門職大学
さて、込山さんにとっての現時点での夢は何ですか?
込山洋一
まず、情報誌のライトハウスをこれからも継続すること。僕がこの世にいなくなっても、50年100年発行し続ける。
込山洋一
それによってアメリカに暮らす日本人の人生や生活を豊かにしたい。「ライトハウス(灯台)」のように、地味だけどいつもそこにあって、みんなの暮らしを応援する存在であり続けたい。
込山洋一
それは教育事業も同様です。一人でも多くの若いみなさんの視野を広げたい、志を高くしたい、それによって人生の選択肢を増やしたいと思います。仕事を通して多くの人に幸せになってほしいです。
開志専門職大学
開志専門職大学の特別講師として学生さんに伝えたいことは?
込山洋一
人生100年時代と言われています。将来は人間が社会に出て、50年、60年、働くことが当たり前になるでしょう。
込山洋一
先ほども話したように、ロボットやAIの登場などで社会は変化していきます。そういう変化の激しい時代に生まれた私たちがどう備えるべきか、どう生きるべきか、みなさんといっしょに考えてみたいと思います。
込山洋一
決して不安になる必要はありません。未来はみなさんにとってチャンスに満ちています。
開志専門職大学
ありがとうございました。アメリカでゼロから会社を起こして30年以上続けてこられた方の貴重なお話を共有できることはとても楽しみです。宜しくお願いします。
特別講師 込山洋一氏
1965年香川県高松市出身。国立弓削商船高等専門学校航海学科卒。単身渡米後、23歳で起業。海外最大の日本語情報誌を創刊。2000年より教育事業をスタート。日本の大学の海外広報や海外研修のリーディングカンパニーとして発展を続ける。2016年、ビジネス・ブレークスルー大学大学院経営管理修士課程修了。ロサンゼルス郊外在住。